サッカーの話をしよう
No173 UAE砂漠の旅 2時間の白昼夢
アラブ首長国連邦(UAE)のオアシスの町、アルアインにきている。アジアカップ取材のためだ。
「アジア版ワールドカップ」。4年にいちど、ワールドカップの中間年に開催され、アジア中の強豪が集う。アジアの「チャンピオン」を決する大会であると同時に、翌年のワールドカップ予選をにらみ、世界から注目される大会だ。
会場は首都アブダビのほか、ドバイ、アルアイン。3つの都市はほぼ正三角形のような位置関係で、それぞれ160キロほど離れている。日本のグループの会場のアルアインにホテルをとり、他のグループの試合には、そこから報道関係者用のバスに乗って他の都市のスタジアムに行くという毎日だ。
道路は砂漠を突っ切って走る。
道路の脇は農場や緑地帯になっているが、その向こうは果てしない砂丘の連なりだ。気がつくと、道路からほんの50メートルほどに砂の波が迫ってきている場所もある。改めて、このアラビア半島で生きていくことの厳しさを知らされる。
単調なバスの旅。最初は大会の話題やとりとめのない話が続いても、しばらくするとみんな眠り込んでしまう。その感覚は、ちょうど10年前、メキシコで開催されたワールドカップを思い起こさせる。
あのときは、メキシコシティに1カ月間ホテルをとり、シティで試合がないときにはバスをチャーターして他の会場都市に出かけていった。
道路もバスも悪い。300キロ以上離れた会場もある。キックオフが正午の試合も多く、それに間に合わせるよう午前4時出発ということもたびたびだった。ホテルの部屋から枕や毛布をもちだし、バスのなかではひたすら眠った。それが、86年メキシコ・ワールドカップの「感覚」だった。
4年後、90年のイタリア大会は夜行列車の旅だった。試合が夜遅く終わるので、次の試合会場に行くのにホテルで寝る時間もなかったのだ。あてにならないイタリア国鉄を頼りに過ごした1カ月間だった。
94年は何10回も飛行機に乗った。広大なアメリカを舞台にした大会。空港往復のタクシー、チェックイン、離陸、睡眠、着陸。その合間に試合を見た。
98年はどうだろう。フランスご自慢のTGV(超高速特急)で試合を追う毎日になるに違いない。しかしそれは、96年欧州選手権での、のんびりとイギリスの田園風景を楽しみながらの列車の旅とはずいぶん違うはずだ。
そして2002年。
私にとって、そしてまた世界からくるファンにとって、どんな「感覚」のワールドカップになるのだろうか。成田とソウルを何度も往復しなければならないのか。それとも、お世辞にも「変化に富んだ」とはいえない新幹線の車窓の景色とともに夢のような1カ月がすぎていくのだろうか。
いや、日本は、まだどこを会場にするかも決まっていなかったのだっけ。
日本サッカー協会が会場決定に責任をもつと決めたのは、すばらしい決断だった。できるだけ多くの人に納得してもらうために、現在大変な作業が続いているに違いない。
だが、会場を決める要素として、どうか、試合を追って日本の各地を旅行する人びとのことを少し考えてもらいたい。そういう人びとが五年後、十年後に「日本のワールドカップは楽しい旅だったな」と思えるような会場計画を考えてほしいと思う。
「2時間の白昼夢」は、突然終わりをつげる。車窓かなたに、ドバイの高層ビル群が広がっている。
(1996年12月9日)
「アジア版ワールドカップ」。4年にいちど、ワールドカップの中間年に開催され、アジア中の強豪が集う。アジアの「チャンピオン」を決する大会であると同時に、翌年のワールドカップ予選をにらみ、世界から注目される大会だ。
会場は首都アブダビのほか、ドバイ、アルアイン。3つの都市はほぼ正三角形のような位置関係で、それぞれ160キロほど離れている。日本のグループの会場のアルアインにホテルをとり、他のグループの試合には、そこから報道関係者用のバスに乗って他の都市のスタジアムに行くという毎日だ。
道路は砂漠を突っ切って走る。
道路の脇は農場や緑地帯になっているが、その向こうは果てしない砂丘の連なりだ。気がつくと、道路からほんの50メートルほどに砂の波が迫ってきている場所もある。改めて、このアラビア半島で生きていくことの厳しさを知らされる。
単調なバスの旅。最初は大会の話題やとりとめのない話が続いても、しばらくするとみんな眠り込んでしまう。その感覚は、ちょうど10年前、メキシコで開催されたワールドカップを思い起こさせる。
あのときは、メキシコシティに1カ月間ホテルをとり、シティで試合がないときにはバスをチャーターして他の会場都市に出かけていった。
道路もバスも悪い。300キロ以上離れた会場もある。キックオフが正午の試合も多く、それに間に合わせるよう午前4時出発ということもたびたびだった。ホテルの部屋から枕や毛布をもちだし、バスのなかではひたすら眠った。それが、86年メキシコ・ワールドカップの「感覚」だった。
4年後、90年のイタリア大会は夜行列車の旅だった。試合が夜遅く終わるので、次の試合会場に行くのにホテルで寝る時間もなかったのだ。あてにならないイタリア国鉄を頼りに過ごした1カ月間だった。
94年は何10回も飛行機に乗った。広大なアメリカを舞台にした大会。空港往復のタクシー、チェックイン、離陸、睡眠、着陸。その合間に試合を見た。
98年はどうだろう。フランスご自慢のTGV(超高速特急)で試合を追う毎日になるに違いない。しかしそれは、96年欧州選手権での、のんびりとイギリスの田園風景を楽しみながらの列車の旅とはずいぶん違うはずだ。
そして2002年。
私にとって、そしてまた世界からくるファンにとって、どんな「感覚」のワールドカップになるのだろうか。成田とソウルを何度も往復しなければならないのか。それとも、お世辞にも「変化に富んだ」とはいえない新幹線の車窓の景色とともに夢のような1カ月がすぎていくのだろうか。
いや、日本は、まだどこを会場にするかも決まっていなかったのだっけ。
日本サッカー協会が会場決定に責任をもつと決めたのは、すばらしい決断だった。できるだけ多くの人に納得してもらうために、現在大変な作業が続いているに違いない。
だが、会場を決める要素として、どうか、試合を追って日本の各地を旅行する人びとのことを少し考えてもらいたい。そういう人びとが五年後、十年後に「日本のワールドカップは楽しい旅だったな」と思えるような会場計画を考えてほしいと思う。
「2時間の白昼夢」は、突然終わりをつげる。車窓かなたに、ドバイの高層ビル群が広がっている。
(1996年12月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。