「国立競技場などつぶしてほしい」
語気を荒らげてまくしたてるエスパルスのレオン監督。ナビスコ杯決勝戦後の記者会見は見苦しいものだった。重要な決勝が相手のホーム同然の会場で開催される不利は否定しない。だがそれは負けた試合の後に話すべきことではない。
その点、イラクと引き分けて手中のワールドカップ出場を逃がした直後の記者会見でのハンス・オフトの態度は立派だった。選手たちを擁護し、辛辣な質問にも感情を抑えて答えた。
話はまた「あの日」に戻ってしまう。これが最後なので、ご容赦願いたい。
カタールでの予選終了後の「表彰式」に日本選手が出席しなかったことに、大会後批判が集中した。「プロらしくない」「フェアプレー賞が泣く」などと、新聞も雑誌も厳しかった。
この表彰式では、アジアオールスター、サンヨー・MVP賞、スニッカーズ・フェアプレーチーム賞、ディアドラ得点王賞の4つの表彰が行われた。日本からはオールスターに4人が選ばれ、得点王にカズ、そしてフェアプレー賞の受賞が決まっていた。
「勝者」サウジアラビアや韓国の選手だけでなく、敗退したイランの選手が出席していたことが、批判の声を大きくした。
実際には、日本の選手たちはこのような行事があることを知らされておらず、川淵三郎選手団団長と日本協会の小倉純二専務理事の判断で選手たちを連れて行かなかったのだった。
試合が終わったのが現地時間で午後6時。選手がホテルに帰ったのは7時近くだっただろう。8時からの表彰式に出席するには、7時半にはホテルを出なければならない。絶望状態にある選手たちに出席を命じることはできないと判断し、国際サッカー連盟に了解をとるだけで、時間はぎりぎりだったはずだ。
アジアサッカー連盟(AFC)のピーター・ベラパン事務総長の話によると、AFCは該当する選手の出席を事前に各国選手団に要請してあったという。その意味では、「欠席」に対する批判は当然といえる。川淵氏も後に、「あのときあのような判断しかできなかったことを悔やんでいる」と発言している。
しかし私は、選手たちに表彰式に出席するよう言わなかった2人の判断を批判する気にはなれない。
考えてほしい。イラクの同点ゴールで日本チームが受けた打撃は、世界のサッカーの長い歴史でもめったにないものだった。1年半をかけて準備してきたチーム。苦境を脱し、奇跡的な連勝で夢はほとんど手中にあった。それが、最後の一瞬に吹き飛んだのだ。
こんなときに「君たちはオールスターに選ばれた。さあ、背広に着がえて表彰式に行くんだ」などと命じることのできる人がいるだろうか。そんな人物を誰が信じられるだろうか。
勝つことよりも、敗戦を謙虚に受け入れることのほうが難しい。それができる者だけが、真のスポーツマンといえる。堂々とした敗者ほど美しいものはない。
だが、巨大な失望から立ち直るのに、時間を要することもある。そんなときに周囲ができるのは、そっとしておくことだけだ。
「そんな甘いことを言っているから、結局勝てないんだ」などという批判がまた聞かれそうだ。しかし忘れてはいけない。サッカーをするのは人間なのだ。人間の心を忘れたら、どんな勝利にも価値はない。
「プロ」に対する社会的要求が激しくなる一方の時代にあって、「人間」としての心を忘れなかった川淵氏と小倉氏に、私は正直なところほっとしている。
(1993年11月30日=火)
語気を荒らげてまくしたてるエスパルスのレオン監督。ナビスコ杯決勝戦後の記者会見は見苦しいものだった。重要な決勝が相手のホーム同然の会場で開催される不利は否定しない。だがそれは負けた試合の後に話すべきことではない。
その点、イラクと引き分けて手中のワールドカップ出場を逃がした直後の記者会見でのハンス・オフトの態度は立派だった。選手たちを擁護し、辛辣な質問にも感情を抑えて答えた。
話はまた「あの日」に戻ってしまう。これが最後なので、ご容赦願いたい。
カタールでの予選終了後の「表彰式」に日本選手が出席しなかったことに、大会後批判が集中した。「プロらしくない」「フェアプレー賞が泣く」などと、新聞も雑誌も厳しかった。
この表彰式では、アジアオールスター、サンヨー・MVP賞、スニッカーズ・フェアプレーチーム賞、ディアドラ得点王賞の4つの表彰が行われた。日本からはオールスターに4人が選ばれ、得点王にカズ、そしてフェアプレー賞の受賞が決まっていた。
「勝者」サウジアラビアや韓国の選手だけでなく、敗退したイランの選手が出席していたことが、批判の声を大きくした。
実際には、日本の選手たちはこのような行事があることを知らされておらず、川淵三郎選手団団長と日本協会の小倉純二専務理事の判断で選手たちを連れて行かなかったのだった。
試合が終わったのが現地時間で午後6時。選手がホテルに帰ったのは7時近くだっただろう。8時からの表彰式に出席するには、7時半にはホテルを出なければならない。絶望状態にある選手たちに出席を命じることはできないと判断し、国際サッカー連盟に了解をとるだけで、時間はぎりぎりだったはずだ。
アジアサッカー連盟(AFC)のピーター・ベラパン事務総長の話によると、AFCは該当する選手の出席を事前に各国選手団に要請してあったという。その意味では、「欠席」に対する批判は当然といえる。川淵氏も後に、「あのときあのような判断しかできなかったことを悔やんでいる」と発言している。
しかし私は、選手たちに表彰式に出席するよう言わなかった2人の判断を批判する気にはなれない。
考えてほしい。イラクの同点ゴールで日本チームが受けた打撃は、世界のサッカーの長い歴史でもめったにないものだった。1年半をかけて準備してきたチーム。苦境を脱し、奇跡的な連勝で夢はほとんど手中にあった。それが、最後の一瞬に吹き飛んだのだ。
こんなときに「君たちはオールスターに選ばれた。さあ、背広に着がえて表彰式に行くんだ」などと命じることのできる人がいるだろうか。そんな人物を誰が信じられるだろうか。
勝つことよりも、敗戦を謙虚に受け入れることのほうが難しい。それができる者だけが、真のスポーツマンといえる。堂々とした敗者ほど美しいものはない。
だが、巨大な失望から立ち直るのに、時間を要することもある。そんなときに周囲ができるのは、そっとしておくことだけだ。
「そんな甘いことを言っているから、結局勝てないんだ」などという批判がまた聞かれそうだ。しかし忘れてはいけない。サッカーをするのは人間なのだ。人間の心を忘れたら、どんな勝利にも価値はない。
「プロ」に対する社会的要求が激しくなる一方の時代にあって、「人間」としての心を忘れなかった川淵氏と小倉氏に、私は正直なところほっとしている。
(1993年11月30日=火)
日本代表のハンス・オフト監督が辞任した。日ごろの彼の言動から、予期されたことではあったが、残念といわざるをえない。
わずか1年半の間にオフトが成し遂げたことは、日本サッカーの歴史に大きく刻まれなければならない。92年のダイナスティカップ、アジアカップでの優勝は、日本サッカーが70数年を要して初めてつかんだ公式国際大会のタイトルだった。そして今回のワールドカップアジア最終予選での韓国に対する勝利。これが日本サッカーにとっていかに大きな歴史の転換点であったか、今後10年のうちに証明されるはずだ。
今予選の前のひとつの不安は、オフトの「経験」のなさだった。彼は非常に優秀なコーチではあるが、代表チームを率いて大舞台で戦うのは、日本が初めてのこと。監督というのは修羅場をくぐってきた経験がものをいう職業だけに、大事なところで命取りになる危険性は無視できなかった。
だが、大会が始まってみると、オフトは他国の百戦錬磨の監督たちに負けない手腕を見せた。プレッシャーから思い切ったプレーができず、2試合を終えて最下位になったときも、彼は冷静に状況を分析し、選手たちの能力を信じ、見事にチームを立て直した。
イラン戦のあとの記者会見で、彼は笑顔やユーモアさえまじえながらていねいに質問に答えた。こうしたオフトの態度は、日本チームも選手たちに少なからぬ影響を与えたはずだ。
最後のイラク戦では選手交代の失敗はあったが、これが今大会で唯一のミスらしいミスだった。
だが、私がオフトの辞任を残念に思うのは、彼が優れた「指揮官」だったからではない。「コーチ」としてすばらしかったからだ。
十年ほど前にオランダ人のウィール・クーバーというコーチが来日した。「クーバー・メソッド」と呼ばれる技術の練習法を指導するためだった。彼が強調したのは、「現在の世界にはいい監督は数多くいるが、いいコーチは少ない」ということだった。
「監督」「コーチ」などと呼び方はさまざまだが、戦略を立て、チームをまとめあげて勝利に導くことのできる監督はいても、若い選手に技術や戦術を教えることのできるコーチはほとんど見当たらない。その結果、優れた技術を基礎としたサッカーが死に絶えそうだというのだ。
ハンス・オフトはまさにすばらしいコーチだった。それは、都並の故障で穴のあいた左バックのポジションを埋める選手を探し出すのに苦労したことでも証明される。1年半かけて細かな戦術から教え込んだチームだったから、代わりの選手は簡単には見つからなかったのだ。
オフトが欲するレベルに達した選手が10数人しかいなかったとすれば、現在の日本代表に必要とされる監督は、「優れた戦略家」ではなく、「優れたコーチ」であることは明瞭だ。そのレベルに達した選手が数多く出てきたとき、初めて戦略家の監督が働く環境ができるからだ。
「負けたら責任をとる」のはプロでは当然のことだという。しかし日本はブラジルやイングランドではない。オフトのような優秀なコーチ、ある意味で最高の「教師」を失う余裕は、日本サッカーにはまだないのではないか。
後任の監督が、オフト以上の戦略家であるばかりでなく、彼に負けない教師であることを祈りたい。
そしてオフトが、なんらかの形で日本にとどまってくれることを期待したい。日本サッカーは、まだまだ「教師」オフトを必要としている。
(1993年11月16日)
わずか1年半の間にオフトが成し遂げたことは、日本サッカーの歴史に大きく刻まれなければならない。92年のダイナスティカップ、アジアカップでの優勝は、日本サッカーが70数年を要して初めてつかんだ公式国際大会のタイトルだった。そして今回のワールドカップアジア最終予選での韓国に対する勝利。これが日本サッカーにとっていかに大きな歴史の転換点であったか、今後10年のうちに証明されるはずだ。
今予選の前のひとつの不安は、オフトの「経験」のなさだった。彼は非常に優秀なコーチではあるが、代表チームを率いて大舞台で戦うのは、日本が初めてのこと。監督というのは修羅場をくぐってきた経験がものをいう職業だけに、大事なところで命取りになる危険性は無視できなかった。
だが、大会が始まってみると、オフトは他国の百戦錬磨の監督たちに負けない手腕を見せた。プレッシャーから思い切ったプレーができず、2試合を終えて最下位になったときも、彼は冷静に状況を分析し、選手たちの能力を信じ、見事にチームを立て直した。
イラン戦のあとの記者会見で、彼は笑顔やユーモアさえまじえながらていねいに質問に答えた。こうしたオフトの態度は、日本チームも選手たちに少なからぬ影響を与えたはずだ。
最後のイラク戦では選手交代の失敗はあったが、これが今大会で唯一のミスらしいミスだった。
だが、私がオフトの辞任を残念に思うのは、彼が優れた「指揮官」だったからではない。「コーチ」としてすばらしかったからだ。
十年ほど前にオランダ人のウィール・クーバーというコーチが来日した。「クーバー・メソッド」と呼ばれる技術の練習法を指導するためだった。彼が強調したのは、「現在の世界にはいい監督は数多くいるが、いいコーチは少ない」ということだった。
「監督」「コーチ」などと呼び方はさまざまだが、戦略を立て、チームをまとめあげて勝利に導くことのできる監督はいても、若い選手に技術や戦術を教えることのできるコーチはほとんど見当たらない。その結果、優れた技術を基礎としたサッカーが死に絶えそうだというのだ。
ハンス・オフトはまさにすばらしいコーチだった。それは、都並の故障で穴のあいた左バックのポジションを埋める選手を探し出すのに苦労したことでも証明される。1年半かけて細かな戦術から教え込んだチームだったから、代わりの選手は簡単には見つからなかったのだ。
オフトが欲するレベルに達した選手が10数人しかいなかったとすれば、現在の日本代表に必要とされる監督は、「優れた戦略家」ではなく、「優れたコーチ」であることは明瞭だ。そのレベルに達した選手が数多く出てきたとき、初めて戦略家の監督が働く環境ができるからだ。
「負けたら責任をとる」のはプロでは当然のことだという。しかし日本はブラジルやイングランドではない。オフトのような優秀なコーチ、ある意味で最高の「教師」を失う余裕は、日本サッカーにはまだないのではないか。
後任の監督が、オフト以上の戦略家であるばかりでなく、彼に負けない教師であることを祈りたい。
そしてオフトが、なんらかの形で日本にとどまってくれることを期待したい。日本サッカーは、まだまだ「教師」オフトを必要としている。
(1993年11月16日)
「あの日」から2週間近くたち、Jリーグの第2ステージも再開されたが、カタールの話題はまだ続く。今回は日本チームの「表彰式ボイコット事件」について書こうと思っていた。というのは、現在支配的になっている日本選手団非難の方向とは、違う意見を私はもっているからだ。
しかし必要な話を聞こうと考えていたアジア・サッカー連盟事務総長が国際サッカー連盟とともに旧ソ連のアジア地区の新独立国の視察に回っているため、このテーマは次週に回すことにした。そこで今回は、日本代表の背番号15、MFの吉田光範(ジュビロ磐田)をとりあげたい。
吉田は、人気者になった中山とともに今回の日本代表ではJリーグ以外のチームからの参加。愛知県の刈谷工業高校を出てヤマハにはいり、ことし13年目、31歳のベテランだ。若いころは特異な感覚をもったFWとして活躍、4年前のイタリア・ワールドカップ予選ではエースストライカーだった。その後代表をはずれたが、92年春にハンス・オフト監督の就任とともに呼び戻された。
選出の理由は、「左サイドの強化」だった。オフトの見るところ、日本は攻撃がどうしても右サイドにかたよる。左右のバランスをとるためには、左利き、あるいは左足で正確なキックのできる選手が必要だ。そこで選ばれたのが、左バックの都並と、ヤマハ(ジュビロ)で左利きのMFとしてプレーしていた吉田のふたりだった。
だが、日本代表に選ばれてみると、吉田の価値に対する認識は試合ごとに新たになった。とくにことし4月のワールドカップ1次予選では、負傷の北澤が欠けた右サイドのMFとしてすばらしいプレーを見せた。攻から守、守から攻への切り替えの早さは、オフトの求めるMFの条件に、誰よりもかなっていた。
最終予選前、うれしい情報を聞いた。長い間彼を苦しめていた左ヒザを負傷から完全に回復し、吉田は絶好調であるというのだ。
そのとおり、カタールでの吉田はすばらしかった。
第2戦を終わったところで最下位とピンチに立った日本は、第3戦に長谷川を入れてFWを3人にする思い切った戦法に出たが、バランスを保ったのは吉田の新しいポジションだった。それまで森保ひとりだった守備的MFを、左に森保、右に吉田と置いて2枚にしたのだ。これによって守備が安定し、ラモスが攻撃のサポートに専念することができた。
森保が欠場した韓国戦、日本は特定の守備的MFなしで戦った。それを可能にしたのは、吉田の戦術的能力の高さだった。
吉田は主として左サイドをうけもち、体を張って韓国のドリブルを止め、的確なタイミングで味方のサポートにはいった。ラモスからパスを受けて左サイドを駆け抜け、カズの決勝ゴールにアシストしたのは吉田だった。
信じ難いことだが、カタールでの吉田は、試合を追うごとに、そして同じ試合でも時間がたつにつれ成長しているように見えた。アジアの強豪を相手にした死闘のなかで、彼は「何か」をつかんだようだった。
この韓国戦、日本チームは90間一体となり、日本サッカー史上最高レベルの試合を見せたが、それを可能にしたのは、攻と守をつないだ吉田のプレーだった。それゆえに、私はカタールでの日本の「MVP」は吉田だと思っている。
日本がボールをもったときにも韓国がボールをもったときにも、彼は常に正しいポジションにいた。吉田はいつも「いるべき時に、いるべき場所に」いた。
(1993年11月9日=火)
しかし必要な話を聞こうと考えていたアジア・サッカー連盟事務総長が国際サッカー連盟とともに旧ソ連のアジア地区の新独立国の視察に回っているため、このテーマは次週に回すことにした。そこで今回は、日本代表の背番号15、MFの吉田光範(ジュビロ磐田)をとりあげたい。
吉田は、人気者になった中山とともに今回の日本代表ではJリーグ以外のチームからの参加。愛知県の刈谷工業高校を出てヤマハにはいり、ことし13年目、31歳のベテランだ。若いころは特異な感覚をもったFWとして活躍、4年前のイタリア・ワールドカップ予選ではエースストライカーだった。その後代表をはずれたが、92年春にハンス・オフト監督の就任とともに呼び戻された。
選出の理由は、「左サイドの強化」だった。オフトの見るところ、日本は攻撃がどうしても右サイドにかたよる。左右のバランスをとるためには、左利き、あるいは左足で正確なキックのできる選手が必要だ。そこで選ばれたのが、左バックの都並と、ヤマハ(ジュビロ)で左利きのMFとしてプレーしていた吉田のふたりだった。
だが、日本代表に選ばれてみると、吉田の価値に対する認識は試合ごとに新たになった。とくにことし4月のワールドカップ1次予選では、負傷の北澤が欠けた右サイドのMFとしてすばらしいプレーを見せた。攻から守、守から攻への切り替えの早さは、オフトの求めるMFの条件に、誰よりもかなっていた。
最終予選前、うれしい情報を聞いた。長い間彼を苦しめていた左ヒザを負傷から完全に回復し、吉田は絶好調であるというのだ。
そのとおり、カタールでの吉田はすばらしかった。
第2戦を終わったところで最下位とピンチに立った日本は、第3戦に長谷川を入れてFWを3人にする思い切った戦法に出たが、バランスを保ったのは吉田の新しいポジションだった。それまで森保ひとりだった守備的MFを、左に森保、右に吉田と置いて2枚にしたのだ。これによって守備が安定し、ラモスが攻撃のサポートに専念することができた。
森保が欠場した韓国戦、日本は特定の守備的MFなしで戦った。それを可能にしたのは、吉田の戦術的能力の高さだった。
吉田は主として左サイドをうけもち、体を張って韓国のドリブルを止め、的確なタイミングで味方のサポートにはいった。ラモスからパスを受けて左サイドを駆け抜け、カズの決勝ゴールにアシストしたのは吉田だった。
信じ難いことだが、カタールでの吉田は、試合を追うごとに、そして同じ試合でも時間がたつにつれ成長しているように見えた。アジアの強豪を相手にした死闘のなかで、彼は「何か」をつかんだようだった。
この韓国戦、日本チームは90間一体となり、日本サッカー史上最高レベルの試合を見せたが、それを可能にしたのは、攻と守をつないだ吉田のプレーだった。それゆえに、私はカタールでの日本の「MVP」は吉田だと思っている。
日本がボールをもったときにも韓国がボールをもったときにも、彼は常に正しいポジションにいた。吉田はいつも「いるべき時に、いるべき場所に」いた。
(1993年11月9日=火)
サッカーの歴史でもまれに見る「悲劇」の主人公となってしまった日本。「取り込み逃がした」魚は、次に出会えるのは4年後という大物だった。
しかしこの大物に次に出会ったときにしっかりと釣り上げるために、日本のサッカーは新たな歩みを始めなければならない。そのひとつが、国内サッカーの見直しにあると私は思う。
日本サッカー協会の強化部門では、年間の試合を増やすことが強化に不可欠であることをかねてから強調してきた。そしてJリーグの日程もそうした考えに沿ったものになった。93年の第1ステージは毎週2試合、第2ステージは2週おきに週2試合がはいった。
激しくしのぎを削る試合は、もちろん、選手を成長させる最大の要因だ。かつての日本リーグのようにリーグ戦が22試合、天皇杯やその他のカップ戦を含めても30試合をオーバーする程度で、しかもオフの期間が長くては、国際舞台で通用するタフさを単独チームで育てることは無理だった。それが、90年のコニカカップの創設などの理由だった。
しかし、年間の試合数を増やすために毎週2回の試合を行うことには、私は賛成できない。選手の疲労による試合のレベル低下、負傷者が続出するという理由からではない。サッカー選手を成長させる「本来のリズム」に反すると思うからだ。
サッカーの選手を成長させる最良のリズムは、毎週1試合のリーグ戦であり、それを約10カ月間にわたって継続することだ。
週1試合の日程は、きちんとした休息、回復と、フィジカルフィットネスを向上させるトレーニング、技術練習、戦術練習を可能にする。週末に激しいリーグ戦を戦い、ウイークデーには体力をアップするトレーニングを行い、技術的な欠点を克服し、次の対戦相手を想定した戦術的な練習を実行する。こうして1年間を過ごせば、選手は実戦を経験しながら体力面、技術面、戦術面でシーズン前とは比較しようのないレベルに達しているはずだ。
毎週でなければ、水曜日にカップ戦など他の試合がはいるのはタフな選手をつくるという意味でいいかもしれない。しかし、リーグ戦の基本はあくまで「週1試合」だと思う。
10カ月間、約43週のなかで、代表チームの日程やカップ戦の決勝などで数週間消えるから、18チーム(年34試合)あるいは16チーム(30試合)のリーグ戦が適当だろう。 こうしたことを実行するには、リーグ戦だけでなく天皇杯などカップ戦のの日程整備も必要だ。
「週1試合」のリーグ戦をベースとした日程は、トップクラスにだけ必要なのではない。少年から中・高校生、大学生まで、年間のうち少なくとも9カ月間は週1試合のリーグ戦をベースにすべきだ。年齢に応じて、移動できる範囲があるから、少年では市内のリーグ、中学では近隣の市町村を含めたリーグ、そして高校では県内のリーグなど、無理のない範囲で行うことができるだろう。
年3回程度の勝ち抜きトーナメントが中心となり、公式戦数の差が極端に大きな現在の日程は、早急に再考すべきだ。強いチームも弱いチームも同じ試合数となるリーグ戦は、選手の集中を防ぎ、いろいろなチームに個性的な選手が生まれる可能性を生む。
勝ち抜きトーナメント中心の現在の日本サッカー。リーグ戦中心の日程への変化は「体質の抜本的改善」とでもいうべき大事業だ。しかし日本のサッカーがステップアップするには、この道を歩むほかはない。
(1993年11月2日=火)
しかしこの大物に次に出会ったときにしっかりと釣り上げるために、日本のサッカーは新たな歩みを始めなければならない。そのひとつが、国内サッカーの見直しにあると私は思う。
日本サッカー協会の強化部門では、年間の試合を増やすことが強化に不可欠であることをかねてから強調してきた。そしてJリーグの日程もそうした考えに沿ったものになった。93年の第1ステージは毎週2試合、第2ステージは2週おきに週2試合がはいった。
激しくしのぎを削る試合は、もちろん、選手を成長させる最大の要因だ。かつての日本リーグのようにリーグ戦が22試合、天皇杯やその他のカップ戦を含めても30試合をオーバーする程度で、しかもオフの期間が長くては、国際舞台で通用するタフさを単独チームで育てることは無理だった。それが、90年のコニカカップの創設などの理由だった。
しかし、年間の試合数を増やすために毎週2回の試合を行うことには、私は賛成できない。選手の疲労による試合のレベル低下、負傷者が続出するという理由からではない。サッカー選手を成長させる「本来のリズム」に反すると思うからだ。
サッカーの選手を成長させる最良のリズムは、毎週1試合のリーグ戦であり、それを約10カ月間にわたって継続することだ。
週1試合の日程は、きちんとした休息、回復と、フィジカルフィットネスを向上させるトレーニング、技術練習、戦術練習を可能にする。週末に激しいリーグ戦を戦い、ウイークデーには体力をアップするトレーニングを行い、技術的な欠点を克服し、次の対戦相手を想定した戦術的な練習を実行する。こうして1年間を過ごせば、選手は実戦を経験しながら体力面、技術面、戦術面でシーズン前とは比較しようのないレベルに達しているはずだ。
毎週でなければ、水曜日にカップ戦など他の試合がはいるのはタフな選手をつくるという意味でいいかもしれない。しかし、リーグ戦の基本はあくまで「週1試合」だと思う。
10カ月間、約43週のなかで、代表チームの日程やカップ戦の決勝などで数週間消えるから、18チーム(年34試合)あるいは16チーム(30試合)のリーグ戦が適当だろう。 こうしたことを実行するには、リーグ戦だけでなく天皇杯などカップ戦のの日程整備も必要だ。
「週1試合」のリーグ戦をベースとした日程は、トップクラスにだけ必要なのではない。少年から中・高校生、大学生まで、年間のうち少なくとも9カ月間は週1試合のリーグ戦をベースにすべきだ。年齢に応じて、移動できる範囲があるから、少年では市内のリーグ、中学では近隣の市町村を含めたリーグ、そして高校では県内のリーグなど、無理のない範囲で行うことができるだろう。
年3回程度の勝ち抜きトーナメントが中心となり、公式戦数の差が極端に大きな現在の日程は、早急に再考すべきだ。強いチームも弱いチームも同じ試合数となるリーグ戦は、選手の集中を防ぎ、いろいろなチームに個性的な選手が生まれる可能性を生む。
勝ち抜きトーナメント中心の現在の日本サッカー。リーグ戦中心の日程への変化は「体質の抜本的改善」とでもいうべき大事業だ。しかし日本のサッカーがステップアップするには、この道を歩むほかはない。
(1993年11月2日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。