サッカーの話をしよう

No103 ウェンブリーに日本代表が立つ

 私が初めてサッカーの魅力に打たれたのは、1966年ワールドカップ決勝をテレビで見たときだった。
 試合は1週間も前に行われ、イングランドが勝ったことは新聞で知っていた。だがそれでも、終了数10秒前に西ドイツが同点ゴールを決めたときには、総毛立つような感動を覚えた。
 ドラマチックな試合だけではない。プレーのスピード、技術、そして巨大なスタンドを埋めた超満員の観衆がいっせいに歌い、拍手を送る。その雰囲気に圧倒されてしまったのだ。そしてその舞台こそ、ウェンブリーだった。

 サッカーの母国イングランドの「ナショナル・スタジアム」の地位を誇るウェンブリーは、1920年代に建設された古い施設だ。1990年に大改修されたものの、世界の最新のスタジアムと比べるとけっしていい施設とはいえない。だがそれでも、イングランドのみならず、世界のサッカー選手、ファンにとって特別な場所となっている。
 1871年に始まった世界最古のサッカー大会「FAカップ」は、ウェンブリーの完成とともに毎年の決勝戦をここで行うことになった。

 その最初の決勝、1923年4月28日のボルトン対ウェストハムは異常な事態となった。当時はこのような試合でも前売り以外は入場券はなく、入口で入場料を取って観客を入れていた。だが4日前に完成したばかりの新スタジアムへの興味もあったのだろう。予想もしなかった大観衆が集まり、気がつくと25万を超す観客が入場していた。定員10万人のスタンドにはいりきるわけはなく、あふれた観客はフィールドに侵入、一時はピッチが見えないほどだった。
 このままでは、大混乱だけでなく大惨事も必至だ。だがそのとき、白馬にまたがったひとりの警官がフィールドに出てきて整理を始めた。その毅然とした美しい姿に大観衆は息を飲み、素直に指示に従った。40分後、観客は全員ラインの外に出され、無事試合が始まった。
 シュートしたボールはネットにはいると同時に人垣にはね返され、コーナーキックの助走スペースは取れなかった。だが奇跡的に、死者はもちろん、大きなケガをした人もひとりもいなかった。「ホワイトホース・ファイナル」として伝説になる決勝戦だった。

 1948八年ロンドン五輪会場。66年にはワールドカップの舞台となり、「母国」イングランドは史上唯一の優勝をなし遂げる。欧州クラブカップ決勝など、数々のビッグゲームも開催された。
 通常はドッグレース(週3回開催)場として使用され、最近はロックコンサートやアメリカンフットボールにも使用されこともあるが、それでも「ウェンブリー」といえばサッカーであり、毎年5月に開催されるFAカップ決勝である。
 重要さからいえば、どこの国のカップ戦決勝とも変わらないが、FAカップ決勝は、120年を超える歴史から国際的にも特別の存在となっている。試合は世界の100カ国以上に生中継で放映される。

 イベントのない日も、ウェンブリーはたくさんのゲストでにぎわう。解説付きの「スタジアムツアー」が行われているのだ。その参加者は、年間6万5000人にも達するという。
 世界の人びとがあこがれるウェンブリー。「サッカーの王様」と呼ばれたペレ(ブラジル)は、現役時代いちどもこの芝を踏むことがなかったことを悔やみつつ引退した。
 今週日曜日、そのウェンブリーに青いユニホームの日本代表が立つ──。

(1995年5月30日)

No102 木村監督休養で挫折したゾーンプレス

 横浜フリューゲルスが木村文治監督の「休養」を発表したのは5月8日、ベルマーレ平塚に1−5と大敗した2日後だった。木村監督は試合直後に「きょうほどショックな敗戦はなかった」と語ったと伝えられていたから、ある程度予想されたことだった。

 木村監督は日本リーグ2部の京都紫光クラブ(現在の京都パープルサンガ)の監督を務めていたが、91年に加茂周氏がJリーグを目指す全日空(現在の横浜フリューゲルス)監督に就任したのを機にコーチとして着任。昨年12月、加茂氏が日本代表の監督に就任した際に後を継いだ。
 加茂監督が就任以来目指してきた「ゾーンプレス」の攻守によるサッカーの完成を目標にし、師と仰ぐ加茂監督の路線を百パーセント継承しての就任。結果的に見れば、この戦術完成へのこだわりが監督の地位を失わせる原因となった。

 「ゾーンプレス」というのは、狭い地域に相手を押し込める守備と、奪ったボールを決められた手順に従って素早く攻めるという総合的なチーム戦術。理論的には、世界を制覇するにはこれしかないことは、多くの人が理解している。
 昨年のワールドカップでも、世界がこの方向を目指していることは明らかだった。だが「完成形」はまだ見られなかった。わずかに数年前までのACミランや今シーズンのユベントス、そして元フリューゲルス・コーチのズデンコが監督として指導するスロベニア代表がこなしている程度だ。
 実行には、非常に高度な判断力と技術、そして何よりも大変な集中力と体力を必要とする。選手にとっては非常に「しんどい」戦術だ。しかも自由にプレーしたがる選手が多いなかで、攻守に多くの約束ごとがあることも大きな障害だ。

 今季フリューゲルスは外国人選手を総入れ換えし、3人のブラジル代表選手を迎えた。単純な計算では戦力は大幅にアップするはずだった。だが彼らに「ゾーンプレス」を理解させ、納得させ、実行させることができるかが懸念された。木村監督にとっては、それが「勝負」でもあった。
 開幕からフリューゲルスの試合内容は理想にはほど遠かった。守備ではプレスがきかず、攻撃にはスピードがまったく感じられなかった。フリューゲルスは4連敗を2回繰り返した。
 だが、木村監督が退陣を決意したのは、連敗したことでも、大敗したことでもない。ベルマーレ戦で選手たちがチームの約束ごとをまったく無視し、自由勝手にプレーをしたことに、監督としてがまんができなかったからに違いない。
 連敗のなかで、選手も監督も苦しんだはずだ。だが監督があくまで理想を追求し、世界に通じるチームをつくろうともがくのをあざ笑うかのように、選手たちは「易き」についた。それが許せなかったのだ。

 今季、私はたったいちどだけ胸のすくような「ゾーンプレス」を見た。4月15日、横浜で行われたセレッソ大阪戦だった。
 前半、フリューゲルスは前園の目の覚めるような個人技によるゴールと、前園−山口−薩川−服部と渡る鮮やかなコンビネーションで2点を先行した。守備もプレスがきき、おもしろいようにボールを奪った。
 それは木村監督五カ月間の努力が結実したすばらしい「80分間」だった。
 だが後半35分、セレッソのFKがフリューゲルスDF薩川の左肩に当たってGK森の逆をつくという不運な失点で同点となり、結局もう1点許して逆転負け。
 世界を目指すフリューゲルスの勇敢な挑戦は、この同点ゴールとともに終わったのかもしれない。

(1995年5月23日)

No101 悪賢さを身につけるには遊びが必要

 20歳以下の日本ユース代表がワールドユース選手権でベスト8進出の快挙をなし遂げた。しかも敗退した準々決勝では世界の「王国」ブラジルを相手に先制ゴールを奪い、最終的にも1−2という接近したスコアだったので、「よくやった」という評価が多い。
 たしかによくやった。チリと引き分け、スペインには同点に追いつきながら1−2。そしてブルンジ戦は落ちついた試合運びで2−0の快勝。追い込まれたときに勝負強さを発揮するところに、日本のユース世代の頼もしさを感じる。

 だが、ブラジルに対する試合のスコアだけを見て、「日本のサッカーが世界に追いついた」などというのは早計だ。
 たしかに、安永(横浜マリノス)のスピードはブラジルを驚かせ、CKからの奥(ジュビロ磐田)のゴールは相手を慌てさせた。しかし大半の時間は、ブラジルが試合を支配していた。日本がボールをもったときも、そのプレーはブラジルの巧みな守備組織にコントロールされていた。
 心配されていたほどフィジカル面では大きな差はなかった。個々のボールテクニックとスピードも見劣りしたわけではない。だが、ブラジル選手と日本選手には大きな差があった。
 それは「判断」の差だ。

 ブラジルの選手たちは、日本の選手たちよりもはるかによく試合の状況を把握し、次のプレーを考えていた。だからボールを受けるときには事前に必ず相手を逆につっておき、自分は楽らくと次のプレーをこなしていた。プレーのタイミングも抜群だった。ブラジルの選手たちが決断力が非常に優れているように見えたのはそのためだ。
 一方、日本の選手たちは極端にいえば「ボールを受けてから状況を見てプレーを決定する」といった場面が少なくなかった。そのため、安永のスピード以外、日本の攻撃が相手を「驚かせた」ことはなかった。スローインのときに、構えてから投げる場所を探しているケースも多かった。

 サッカーでは、この判断の速さはプレーの質を左右する決定的な要因である。
 「日本のサッカーに足りないのは、いい意味での悪賢さだ」
 最近の雑誌で、元鹿島アントラーズのジーコがこのようなことを書いていた。
 「悪賢さ」という言葉は「正々堂々」という日本人好みのスポーツ観とは相反するように聞こえるかもしれない。しかし、それは、時間かせぎや審判の見えないところでの巧妙な反則などを指すわけではない。
 相手より先に状況を知って、相手より先にプレーを企画しアクションを起こすことによって、相手を謝った判断や方向に導くことを指している。そしてこれこそ、この「サッカー」というゲームの本質なのだ。
 ジーコは日本人にはそのサッカーの「本質」が欠けているという。そしてワールドユースのブラジルとの対戦は、それを見事に証明していた。では、どうしたら「悪賢さ」を身につけることができるのか。

 それは「遊ぶ」ことだ。少年時代にどれだけ「遊んだ」かが、「悪賢さ」につながる。
 小学生のころに何もかも教え込むような指導をすると、けっして自分で考える力をもった選手は生まれない。近所の子供たちが集まって、何時間も何時間もあきることなく続くゲームのなかから初めて本物の「悪賢さ」が生まれる。
 日本ユース代表が示したブラジルとの「距離」をどうとらえ、それを縮めるためにどうするか。日本のサッカーが本当に世界に追いつくために、真剣に考えなければならない問題だ。

(1995年5月9日)

No100 相手への憎悪を応援と思うな

 先週の水曜日に大宮で行われた浦和レッズ×清水エスパルス戦で、試合後、エスパルスのGKシジマールの「挑発行為」に激怒したレッズのサポーターが数10人グラウンドに乱入してシジマールを追うという事件が起きた。
 警備陣や両チームの選手が止めにはいったためシジマールが暴行を受けなかったのは誰にとっても幸いだった。この直後シジマール自身がレッズ・サポーターの前に行って謝ったことで騒ぎは一応収まった。
 だが、この事件は、Jリーグ・クラブのサポーターの扱いについて重大な岐路となるかもしれない。

 たびたび飛び下りなどの事件を起こしてきたレッズだが、これまでは一貫して「サポーター擁護、相互信頼」の立場をとってきた。サポーターの意見や希望を聞く一方で、自覚をうながし、物の投げ入れや飛び下りの自主的な防止を呼びかけてきた。
 だから外国のスタジアムに見られるような観客席とフィールドを隔てる柵などはつくらなかった。鉄条網や金網で囲った飛び下りを防止用の柵は、観客をまるで動物園のサルのように扱うことになるからだ。

 私の見た限りでは、サポーターたちもよく努力してきた。先日の事件のときにも、飛び下りようとする者を必死に止めようとしているサポーターが何人も見られた。シジマールを攻撃しようとする仲間を止めようと飛び下りた者もいた。
 その立場からすれば、先日の事件は暗澹たる気持ちにさせられるものだった。
 「柵が必要ではないか。サポーターを柵で囲うべき時期ではないか」
 そんな思いが頭をよぎるのを抑えることはできなかった。

 だが、この事件にはもうひとつの問題点がひそんでいる。それは、アウェーチームのGKに対するサポーターの態度だ。
 最近、どこのサポーターも、自分たちの前に相手GKがくると、理由もなくブーイングを繰り返す。ゴールキックのときなど、ひどく憎しみをあらわにして威嚇する。そしてそれがチームを「サポート」する、つまり味方として戦うことだと思い込んでいる。
 これはとんでもない考え違いだ。GKに限らず、アウェーチームの選手は、自分たちを楽しませるためにホームチームとの試合をしにきてくれた勇者たちだ。であれば、まず敬意を払うべきではないか。

 以前、このコラムで「いいプレーにはもっと拍手をしよう」という内容の記事を書いた。それにつけ加えるなら、相手チームであろうと、想像力に富んだすばらしいプレーには惜しみなく拍手を送るべきだし、逆に集中力を欠いたつまらないミスには、自分のチームでも容赦なくブーイングを浴びせるべきだ。そうやってサッカーの質を上げていくのが本物のサポーターのはずだ。
 盲目的に自分のチームのプレーを称賛する一方、相手チームには理由もなく敵意をむき出しにするサポーターは、スタジアムを険悪な空気にするだけだ。大宮の事件は、サポーターのそうした「間違った常識」がシジマールを過剰に反応させた結果起きたものだ。
 そしてそれは、レッズのサポーターに限った話ではない。Jリーグ全クラブのサポーターに共通する危険な「常識」、他の競技場でも、いつでも起こりうることなのだ。
 「本場」ヨーロッパでも同じようにしているかもしれない。だが「悪習」まで輸入することはない。そうなれば、私たちはその悪習をもった「猛獣」を閉じ込める「檻」まで輸入しなければならなくなる。

(1995年5月2日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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