サッカーの話をしよう

No154 オールドトラフォード 夢の劇場

 オールド・トラフォード----。
 このスタジアムを所有する「マンチェスター・ユナイテッド」クラブのファンだけでなく、世界中のたくさんのファンにとって特別な響きのある名前だ。

 何よりも、数多くのスターが活躍し、伝説的なプレーを生んできた。そして常に超満員の観客がスタンドを埋め、心を揺さぶる応援のなか、情熱的な試合が繰り返されてきた。
 66年ワールドカップで3試合の舞台となり、現在進行中の欧州選手権では準決勝を含む5試合が開催され、ウェンブリー(ロンドン)に次ぐ主会場である。

 マンチェスター・ユナイテッドは1878年に創設された。ふたつのグラウンドを転々とした後、「20世紀にふさわしいスタジアムをつくろう」と移転したのが、現在のオールド・トラフォードだった。
 1910年2月19日にグラウンド開きが行われ、その後50年間かけた「拡充計画」が実行された。第二次大戦中にドイツの爆撃で壊され、8年間も使えない時期があったが、屋根を付け、それを広げ、スタンドを大きくし、照明設備を設置し、スタジアムは年を経るごとに快適な設備に生まれ変わった。
 64年には新しい「30年計画」がスタートした。より近代的なスタジアムとするためだ。屋根が全面的に改修され、試合はより見やすくなった。

 だが「プロのスタジアムは96年までに立ち見席を一切なくす」という法律に従った結果、93年に「30年計画」が完成したときには、それまで5万8000あったキャパシティが4万5000にまで低下していた。シーズンチケットの順番待ちは数万人を超し、収入面でも大きな打撃だった。
 クラブの動きは迅速だった。95年には、北側のいわば「バックスタンド」を全面的に拡大改修する計画を発表し、すぐ工事にとりかかったのだ。
 そしてことし5月、すべての工事が終了した。オールド・トラフォードは5万5800人のキャパシティを取り戻した。

 この間、チームは何度も浮沈を繰り返した。最も大きな打撃は、1958年2月の「ミュンヘンの惨劇」だった。遠征からの帰途の航空機事故で、8人もの主力選手をいちどに失ってしまったのだ。
 その10年後、事故を生き延びたバスビー監督のもと再生したユナイテッドは、欧州チャンピオンズ・カップ優勝という最高の瞬間を迎える。チャールトン、ベスト、ローと「欧州年間最優秀選手」を3人も擁する史上最強チームだった。
 だが、そのスターたちの老化とともに、わずか6年後に2部落ちの悲哀を味わう。そしてファーガソン監督の下、イングランド・チャンピオンの座を取り戻したのは93年。実に26年ぶりのことだった。

 「こんなすばらしいスタジアムで、ひどいプレーをするなんて不可能だ」
 オランダのヨハン・クライフはそう語った。
 プロスポーツの定めで、チームには栄光の瞬間も失望の時期もあった。だがクラブは一貫してスタジアムに投資し、その結果ファンの支持を獲得してきた。ユナイテッドの年間平均観客数は、4万3000人を切ったことがない。そうした環境があったからこそ、数多くのスターが登場し、伝説が生まれてきたのだ。

 60年代のというより、ユナイテッドの全時代を通じての最大のスターだったボビー・チャールトンは、20年間にわたる選手生活を過ごした「わが家」をこう表現している。
 「オールド・トラフォードは、夢の劇場だ」

(1996年6月24日)

No153 ヨーロッパサッカー家族

 「ヨーロッパのサッカーはひとつの家族」
 イングランドの8都市を舞台に行われているヨーロッパ選手権を取材しながらそんなことを思った。

 アジア、アフリカ、南米も加わるワールドカップと比べると、非常に整然とした感じがする。16の出場チーム、観客、そして取材するメディアにも、ひとつの「常識」のようなものが流れていて、そのなかですべてが運ばれている。
 ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)は強力な財政基盤とリーダーシップをもった組織だが、それだけではこの「秩序」を説明することはできない。もっと深く、幅広い要因が、ヨーロッパ・サッカーの「常識」を支えている気がする。

 ヨーロッパでは毎年3種類のクラブカップが開催され、加盟49協会から約200クラブが参加する。大会は完全な「ホームアンドアウェー」形式。どのチームと当たっても、地元と相手のホームタウンで一試合ずつ行う。チームが動けばメディアが従い、ファンも動く。200クラブすなわち200都市が、サッカーを通じて毎年無差別に「交流」していることになる。
 また2年ごとにヨーロッパ選手権とワールドカップの予選が繰り返され、代表チームすなわち国同士の交流も「半強制的」に行われる。こうした日常的な交流がヨーロッパのサッカーにひとつの「文化的常識」を育て、今大会での「秩序」となって現れているのだ。

 たいていの国へは飛行機で1、2時間というヨーロッパの「狭さ」がうらやましい。アジアでは、乗り継ぎの都合によっては一昼夜を要するところさえあるからだ。
 アジア・サッカーの後進性は、経済的な問題もさることながら、あまりに広大で、日常的な国際交流が不足している点にある。
 そしてそのなかで、日本はヨーロッパや南米の「先進国」に目を向け、そこを目指して「追いつき、追い越せ」と努力してきた。

 高い目標をもつのはけっこうなことだ。だがこの日本サッカーの歩みは、日本経済とどこか共通した面がある。アジアに背を向け、世界ばかり見て励んできた結果、気がついたら「アジアの中の日本」という立場がどこにも見えない。
 地理的距離だけでなく、宗教、経済、政治などアジアには多くの問題があり、それがサッカーの自由な交流を阻んでいる。しかし日本のサッカーは、自らがもうひとつ成長するためにアジア全体のサッカーを発展させければならないことに気づくべきだ。

 アジアのクラブカップに「サテライトチーム」を送っていてはいけない。大会と相手チーム、相手国に敬意を払い、最強チームでホームもアウェーも戦えるよう国内の日程を調整しなければならない。アジアで最も重要な代表チームの大会である「アジアカップ」には、しっかりと準備して臨まなければならない。アジアサッカー連盟(AFC)の活動にも、積極的に取り組まなければならない。
 アジア・サッカーのリーダーシップをとって、ヨーロッパのような「サッカー家族」とすることで全体のレベルアップを図らなければ、日本サッカーが本当に世界に追いつくことはできないのだ。

 「フットボール・カムズ・ホーム(サッカーがお家に帰ってきた)」
 今大会のキャッチフレーズだ。もちろんイングランドがサッカーの「母国」であることを示しているのだが、私には、ヨーロッパというひとつの「サッカー家族」が久しぶりに実家に顔をそろえたんだと言っているようにも思えてならないのだ。

(1996年6月17日)

No152 ヒーローインタビューは反スポーツ的

 強豪メキシコに逆転勝ちした喜びが、どこかに吹き飛んでしまった。

 5月29日、博多の森球技場。激しい試合の末キリンカップ優勝を決めた日本は抱き合って喜んだ。一方のメキシコは落胆の気持ちを抑え、「表彰式」のためにグラウンドに並んだ。と、そのときである。
 ハーフラインとタッチラインが交差するあたりにマイクをもった男が現れる。そして日本の喜びの輪のなかから相馬選手が引っ張ってこられ「ヒーローインタビュー」が始まったのだ。スピーカーの声が場内いっぱいに響きわたる。
 インタビューは延々と続き、メキシコの選手たちはあきれ顔で見ていたが、やがて無言で更衣室に引き揚げた。その後、メキシコの存在などなかったかのように表彰式が始まった。

 ヒーローインタビューほど「反スポーツ」的なものはない。試合終了直後に興奮さめやらぬファンの前で選手に話をさせようというのは、どういう感性なのだろうか。
 試合が終われば「ノーサイド」、敵も味方もない。ひとつのボールをめぐってプレーし合った「仲間」だけが存在する。試合自体には勝敗がつくが、選手たちは全員が90分間を戦い抜いた英雄であり、同時に仲間である。それがスポーツの本来の姿のはずだ。
 勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは誰でも同じこと。だが「スポーツマン」というのは、どんな結果も受け入れることができなくてはならない。トップクラスの大人の選手であれば、誰でも知っている。

 そうした心を踏みにじるのが、「ヒーローインタビュー」という名の悪しき習慣だ。これは試合運営側の演出ではなく、試合を中継している放送局がやっているものだ。
 勝ったチームの選手に質問(ときには質問になっていない感想)をぶつけ、選手の言葉でスタンドをもういちど沸かせて「いい絵」にしようという低次元な魂胆。それは放送自体が「スポーツ中継」ではなく、ヒーローを中心とした「ドラマ仕立て」であることと表裏一体をなしている。

 日本のスポーツ中継ほど「スポーツ」そのものに関心の薄いものはない。スターの「人間ドラマ」ばかりに熱中して、試合の流れとは無関係のおしゃべりに付き合われる視聴者などおかまいなしだ。
 そして、放送の中だけならともかく、そうした感性を競技場、すなわちスポーツの現場にまで持ち込んだのが「ヒーローインタビュー」にほかならない。
 放送の都合上選手のコメントがほしいのなら、部屋を用意するなり、更衣室への通路などを利用すればすむ。そうすれば選手たちも冷静になり、観客受けを狙った「がんばります。応援よろしく!」ではなく、知的で興味深い言葉を聞くことができるかもしれない。

 もちろん、第一に必要なのは試合運営サイドの「見識」だ。観客の前でのヒーローインタビューを許可しているのは運営サイドだからだ。
 私たちが見たいのは、品性のかけらもないお祭り騒ぎではない。2つのチームが全身全霊をかけて戦い、心の躍るようなゲーム、試合終了後には互いに健闘を讃え合う美しいスポーツマンシップ。いい代えれば、スポーツそのもののすばらしさを見たいのだ。

 先日の博多の森。割れんばかりの拍手で両チームの気分を盛り立て、「いい試合」の舞台を整えてくれた観客が、「ヒーローインタビュー」のさなか、引き揚げていくメキシコ選手たちに盛大な拍手を送ってくれたことが、せめてもの救いだった。

(1996年6月10日)

No151 自らルールを破ったFIFA

 いったいどう表現したらいいのだろうか。
 ありえないこと、あってはならないことが起こってしまった。国際サッカー連盟(FIFA)による2002年ワールドカップ日韓共同開催の決定である。

 ワールドカップの開催国決定は、本来純粋に「スポーツ」の話でなければならなかった。どこで開催するのがより良いワールドカップの実現につながるか、それだけを考えるて決めるのが筋のはずだった。
 立候補国同士の国民感情や歴史的ないきさつ、また特定地域の和平などは、重要な問題であっても、開催地決定の本来の要素とはなりえない。
 日本と韓国は、それぞれに「最高にして最大」のワールドカップを「アジアで最初」に開催しようと知恵を絞り、開催計画書を提出した。ともにFIFAが提示した「開催条件」を真剣にとらえ、すべてをクリアした計画だったはずだ。

 とすれば、FIFAとしても真摯に両者の計画を検討し、ルールどおりに開催国を決定すべきだった。
 ワールドカップの開催国決定のプロセスは、いわば建築工事の入札のようなものだ。発注側(FIFA)は工事の条件(開催条件)を提示し、受注を希望する業者(日韓)は慎重に検討して入札額、工事案(開催計画)を提出する。
 「1社だけで全工事をやらなければならない」という工事条件を出して入札を受け付けた以上、どこか1社に決めるのが発注側の誠実義務である。それを決定の直前になって「共同工事にせよ」というのは「ルール無視」以外の何物でもない。発注側と受注側に健全で対等な関係があれば、ありえないことだ。
 なぜこんなことになったのか。それはFIFA内部の醜悪な「政争」の結果にほかならない。

 74年以来22年間もFIFA会長を務めるブラジル人のアベランジェ。その「独裁」にピリオドを打とうと立ち上がった欧州サッカー連盟会長のヨハンソン(FIFA副会長)。日本支持のアベランジェにヨハンソンが共同開催でゆさぶりをかけた。
 アベランジェが主張していた「2006年ワールドカップのアフリカ開催」をヨーロッパにもってくること、次回98年のFIFA会長選挙など「取り引き」の材料はいくつもあった。「綱引き」の結果、ワールドカップは「共同開催」で落ちついた。
 「将来のワールドカップの方向性を決める意義のあること」などと声高に大義名分を叫ぼうと、ご都合主義の決定であることは隠すことはできない。
 条件のいい「単独開催候補」が二つもあるのだ。純粋に「ワールドカップの成功」を考えれば、問題山積が予想される共同開催などありえない。

 ワールドカップ開催国決定という重要なことまで政争の道具にしてしまったFIFAは、急速に世界のサッカーのリーダーとしての機能を失いつつあると見ていいだろう。
 今後、日本と韓国はこれ以上FIFAの「食い物」にならないように気をつけるべきだ。「最高のワールドカップ」を実現するために協力し合わなければならないが、無益な「競争」で互いに無理するようなことはあってはならない。FIFAに対する過剰なサービスも、もちろん禁物だ。
 それよりも、2002年の決勝戦(どちらでやるかわからないが)を日本と韓国で戦うことができるように、サッカーの面の強化を徹底して計ろう。
 それこそ、ルール違反の無責任な「共同開催」を押しつけたFIFAに対する最高の「恩返し」だ。

(1996年6月3日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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